沖 縄 移 住 生 活 始 め ま し た
むかし、むか〜し、と言っても西暦1853年というから、今から160年ほど前のことじゃ。日本の年号では、江戸時代末期の嘉永6年にあたる。アメリカのペリーが4隻の黒船を率いて浦賀に入港する1月半ぐらい前に那覇港に立ち寄ったそうな。〈注1〉
そのとき、ペリーは12名の探検隊を編成し、首里城から西原、中城方面に向け、中頭方東海道(なかがみほう−とうかいどう、通称ハンタ道〈注2〉)を北上したんじゃと。
一行は新垣(あらかき)というところで休憩したそうじゃが、そこは、島の東西の海を見渡せる景色の良いところで、二つの大きな奇岩があったそうな。
一行は岩の頂上に星条旗を立て、岩山征服の祝砲を撃ち、この岩を旗立岩(Banner Rook)と名づけたそうじゃ。
地元では、それまで、この岩のことを「ターチー岩(二つ岩)」と呼んでおったが、ペリー探検隊の出来事に由来して「ペリーの旗立岩」と呼ぶようになったのだとさ。
おしまい。
写真左は、ペリーの旗立岩。右は、ペリー探検隊に随行した画家ウイリアム・ハイネが残したスケッチ。 探検隊の様子や当時の琉球の風俗が垣間見ることができ、兵士達が銃を撃っている様子が描かれている (現地の案内板を撮影)。
〈注1〉ペリー来航…この年の7月、ペリー艦隊が浦賀に入港して徳川幕府に開国を迫ったのは、歴史の教科書にも出てくる有名な話だが、その前に沖縄に立ち寄ったことは、本土では、あまり知られていない。私は、沖縄に立ち寄ったということは知っていたが、探検隊を編成して島を歩き回ったことは、今回初めて知った。ペリー艦隊は5月に、当時、薩摩藩影響下にあった琉球王国の那覇沖に停泊した。ペリーは首里城への訪問を打診したが、琉球王国側はこれを拒否した。しかし、ペリーはこれを無視して、武装した兵員を率いて上陸し、市内を行進しながら首里城まで進軍した。 琉球王国は仕方なく、武具の持込と兵の入城だけは拒否するとして、ペリーは武装解除した士官数名とともに入城した。ペリー一行は北殿で茶と菓子でもてなされ、開国を促す大統領親書を手渡した。さらに場所を城外の大美御殿に移し、酒と料理でもてなされた。ペリーは感謝して、返礼に王国高官を軍艦「サスケハナ」に招待し、同行のフランス人シェフの料理を振舞った。 琉球は、友好的に振舞ったことで武力制圧を免れた。 この話は、『琉球王国評定所文書』 に詳しく記載されいる(Wikipedia)。
〈注2〉ハンタ道…琉球王府時代の街道で、首里、西原、中城、勝連を結ぶ。14世紀後半には整備されたといわれており、「ハンタ道」とは、崖沿いの道という意味。国の文化審議会は、平成26年11月21日、国の史跡に指定を答申した。そのニュースを知り、早速、出かけてみた。ナビに大よその場所の見当をつけて行ったので行き着くことが出来たが、ナビがなければ到底、着けないようなところにあった。旗立岩の周辺は、電波中継の施設や数多くの鉄塔が立ち並び、往時の面影はないが、二つに分かれた岩山は、正面から見ると垂直の崖となっており、ペリー一行でなくとも、てっぺんに立ってみたいという意欲に駆られた。
《追記》上記は、現地の案内板に記された記事にWikipediaの一部を加えて作成したので、観光案内的な内容になっているが、他の資料を詳しく読むと、ペリーの琉球での行動は、決して友好的ではなかったことが分かる。その内容を箇条書きで ご紹介する。
・ペリーが琉球に上陸したのは、石炭、食料、水などを確保するためで、探検隊と称したのは、船の燃料である石炭の確保のための地質調査が目的だった。石炭の鉱脈は見つからなかったが、一部の部隊を那覇に残し、浦賀で交渉に当たる艦隊の戦略上のバックアップ拠点にした。この作戦は、100年後、ベトナム戦争のときにも沖縄が担わされた役割に共通する。
・一部の兵士達は粗暴で、略奪、強盗事件を起こす。地質調査の探検隊の水兵が、恩納村の番所に押し入り、酒を要求した。酒がないと分かると、人家に侵入して酒を要求したが、誰も与えなかったので、通行人に発砲するという傷害事件を起こした。三人がケガを負った。
・そして、起こるべきして、水兵による女性暴行事件が起きた。民家に上がりこんで酒を強要して泥酔し、女性に乱暴した。騒ぎを聞きつけた住民は、逃げる水兵を追い詰めたところ、海に落ちて溺死してしまう。ペリーは被害者に謝罪どころか、水兵を殺害した住民を裁判にかけ、八重山への終身流刑を言い渡した。ただし、琉大の先生の話では、琉球王府は、ペリーには流刑にしたと言っただけで、実際には行わなかったそうだ。
ペリー来航によりもたらされた一連の事件は、琉球の人々の平和な生活を脅かした異常な事態であった。これらの事件は、歴史の表舞台には登場しない。
この追記は、神戸女学院大学教授の真栄平房昭氏の「沖縄からの声(4)ペリー艦隊の沖縄来航」、沖縄大学講師の仲村清司氏「沖縄県謎解き散歩」などを参考に作成した。
那覇市の泊港外人墓地の中に、ペリー提督上陸記念碑が立っている。高さ3メートルの立派な石灰岩の石碑である。昭和39年に建てたというが、誰も歓迎しなかったであろう彼らの上陸記念碑など、誰が建てたのだろう。米軍人が沖縄で、いまだに犯罪を起こし続けるのは今も変わらない。石碑には、首里城でペリーが琉球王に述べた言葉が "Prosperity to the Lew Chewans, and may they and the Americans always be friends." 、"琉球人の繁栄を祈り、かつ琉球人とアメリカ人とが常に友人たらんことを望む " と彫られている。在沖米軍人がみんな、そう思ってくれることを祈りたい。 |
ナビゲーションはトップページにあります。
TOPページへ