ジュリ馬祭り


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《追記》平成31年のジュリ馬祭りは、3月31日(日)14:00〜16:30 那覇市辻2-8-7「辻新思会」前にて開催された。120人のジュリ馬が一斉に舞う姿は圧巻の絵巻だった。その模様の写真は、このページの一番下に。



ジュリ馬祭り


平成29年3月19日、ジュリ馬祭りに行ってきた。あいにくの雨だったため、外ではなく、料亭「那覇」3階の大広間で行われた。私が行った時間には、350名の宴会ができるという大広間を見物客が埋め尽くすほどの大盛況だった。この後も、人がどんどん入ってくるので、床が抜けないかと心配だった。司会者とのトークでは山梨県から来ていた人もいた。地元だけでなく、遠来の客もいたようだ。ジュリ馬の行列が始まる前に、この祭りの主催者である辻新思会の理事長と、ジュリ馬の専門家という女性の話があり、このあと奉納の舞踏や民謡ショーなどが2時間も続いた。畳に2時間も座っていたら、足はしびれる、腰は痛む、座り直したくても、すし詰め状態なので身動きも満足にできず辛い思いをした。

さて、「ジュリ」って何だと思われるだろうか?。私は、歌手の沢田研二(ジュリー)や「ノダメカンタビーレ」の上野樹里、女子ソフトボール界の大魔神、高山樹里を思い浮かべるが、実は「ジュリ」とは、沖縄の方言で遊女のことである。琉球王朝時代、那覇には、辻(ちーじ)、仲島(なかじま)、渡地(わたんじ)と呼ばれる三大遊郭地域があった。ジュリ馬祭りは、辻の各遊郭から選ばれたジュリたちが、華やかに着飾り、馬の頭の飾り物をつけ、三線に合わせ「ユイユイユイユイ…」と威勢よく声をあげながら、行列を作って道路を練り歩くお祭りのことである。今回は室内だったため練り歩けないので、その場で足踏みだった。


辻の華

では、ジュリ馬祭りについて、その悲しいエピソードを ご説明したい。

遊女であるジュリたちは、もともと家が貧しく、口減らしのために親に売られてきた娘たちであった。借金の返済が済まないと自由の身にはなれない。外出も制限されていたので、家に帰ることもできなかった。自由に外出することのできなかったジュリたちが、この旧暦1月20日のジュリ馬行列のときだけ 外の世界に住む家族に自分の元気な姿を見せることができた。
そんな彼女たちが町を練り歩くとき、華やかな雰囲気の陰に、離れ離れになった親や兄弟が目頭を熱くして大勢の見物人の中にいた。その姿を見つけても口をきくこともできなかったので、目と目で互いの無事を確かめ合うだけだった。

かって4歳のときジュリとして「辻遊廓」に売られ、29歳までそこで暮らた上原栄子さん(故人)が、「辻の華」(時事通信社刊)という本を出版しておられる。詳しくお知りになりたい方は、お読みを。戦後篇上・下、新篇、くるわのおんなたち版などがある。


上原栄子著「辻の華」については ⇒ コチラから


ジュリ馬祭り ジュリ馬祭り
ジュリ馬の行列が始まる前に奉納の舞踏などが2時間あった。さながら舞踏の発表会のように華やかだった。
ジュリ馬祭り

さぁ、いよいよジュリ馬行列のスタート。きらびやかな衣装をまとったジュリ馬が行進する姿は圧巻だった。

ジュリ馬祭り ジュリ馬祭り


ジュリ馬祭り

「ユイユイユイユイ」と掛け声をあげながら舞うジュリに扮した皆さん

ジュリ馬祭り


沖縄には旧暦の1月20日を二十日正月(はちかそーぐゎち)といい、正月の祝い納めをする伝統がある。その日、那覇市の辻町一帯で「ジュリ馬祭り」が行われる、とラジオのふるさとだよりで放送していたので、2月16日(旧暦1月20日)に那覇市辻に出かけた。ところが祭りが行われている様子がなかったので、那覇市の観光課に問い合わせた。すると3月19日に行われると教えてもらったので、出直しすることになった。3月19日は、旧暦の2月22日に当たる。どうして旧暦の1月20日でないのだろう?。

かつては「那覇大綱挽き」「那覇ハーリー」と並んで那覇三大祭と呼ばれていた時代もあったそうだ。戦禍で中断した後、昭和28年に一旦、復活したが、「売春を助長する儀式」「遊女を公認するのはおかしい」と女性団体から反対され、昭和63年を最後に平成11年までの12年間途絶えていた。しかしながら、地域の人々から復活を望む声があり、平成12年から再び行われるようになったそうだ。

ジュリの起こりについては、HP「那覇市内史跡・旧跡詳細」を引用すると、『15世紀以降、唐(とう)や南蛮(なんばん)(東南アジア諸国)、大和(日本)と交易を行った時代、中国からの冊封使(注1)一行や大和からの商人等をもてなした「ジュリ」が居たといわれる。「球陽(注2)」には、1672年に「辻」・「仲島」に村を創建し、そこに多くのジュリが住むようになったとあり、この頃、各地に居たジュリを「辻」・「仲島」・「渡地」の3ヵ所が琉球の花街として明治期まで存続した』とある。その後、明治の終り頃、「仲島」と「渡地」の花街は廃されて「辻」に統合されたので、「辻」は、沖縄県下最大の社交場、「華やかな」場所として知られるようになった。その華やかな「辻」も昭和19年10月10日の空襲により消滅し、その幕を閉じることになったのである。

昭和45年に加藤登紀子さんの歌う知床旅情のレコードが発売された。そのB面のカップリング曲が「西武門(にしんじょう)哀歌」である(発売当初は「西武門哀歌」がA面だった−wikipediaより)。「西武門哀歌」は「西武門節」を現代風にアレンジしたもので、昭和9年ころにヒットした流行歌。かつての辻遊郭を舞台にした娼妓と首里の士族(侍)との情歌である。加藤登紀子さんが歌う「西武門哀歌」をお聞きになりたい方は、⇒ こちらから。音が出るので、深夜はボリュームにご注意を。なお、西武門とは、那覇市にある地名(現在はバス停、病院や店の名前に残っているが、町名にはない。久米大通りと若狭大通りの交差点あたりをいう)で、西は沖縄では北の方角をいう。門は大通りの入口の意。西武門が遊郭の辻への入り口にあたるため、遊女と客の別れの場所になった。HP「たるーの島唄まじめな研究」によれば、元の「西武門節」の歌詞は、客が「もう行くよ かわいい人」と言うと、遊女は「待ってください 愛しいお方 西武門までの間、お供します」と、ひたすら別れを惜しむ情景が歌われている。

池上永一氏の小説「トロイメライ」にもジュリが登場する。詳しくは ⇒ コチラから
「トロイメライ」の続編「唄う都は雨のち晴れ」にも登場する ⇒ コチラから



ジュリ馬祭り 料亭那覇
ジュリ馬の行列が退場してゆく ジュリ馬祭りが行われた料亭「那覇」


(注1)冊封(さくほう)…「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。中国の歴代王朝の君主たちが自任した。臣となった者は指定された「方物」を「天子」に献上し、併せて天子の徳をたたえる文章を提出する。これを朝貢という(Wikipediaより)。

(注2)球陽(きゅうよう)…1743年〜45年に琉球王国の正史として編纂された史書。書名の『球陽』とは琉球の美名であり、日本国内では岐阜を「岐陽」とか「華陽」、長崎を「崎陽」と称したのと同様と考えられる(Wikipediaなどより)。

なお、今回、ジュリに扮しておられた五十数人は、祭りの奉納舞踏をされた扇寿会、玉扇会の踊りの師匠とお弟子さんはじめ、料亭「那覇」にお勤めの皆さんなどです。

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《追記》以下は、平成31年3月31日に行われた「ジュリ馬祭り」の写真。路上でジュリ達と同じ高さから撮影すると被写体同士が重なってしまうため、高いところで撮影できるよう、この日は14時前から最適ポイントを確保して準備していた。舞踏奉納が終わるまで2時間待ってジュリ馬の舞が始まると、大勢の人が私の回りに押し掛けたので移動することができず、全て同じ撮影位置からの撮影となった。

ジュリ馬祭り

ジュリ馬祭り ジュリ馬祭り


ジュリ馬祭り

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ジュリ馬祭り

ジュリ馬祭り ジュリ馬祭り
精鋭部隊がステージの上で舞う 「ゆいゆいゆい」の掛け声とともに、ジュリ馬が退場する


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