なぜ、沖縄移住は失敗するのか?


このサイトで既に書いたことがあるが、沖縄への移住者の8割は5年以内に本土に帰るという現実がある。総務省が発表した平成29年の人口移動報告によると、沖縄では1,112人/年の転出増だった。転出者のなかに移住者が何人いるかという統計はないし、仕事の関係などで転出する人もいるだろうから中身は見えないが、住んでみたい全国2位の県なのに転出が転入を上回っている。移住者が本土に帰る理由は人様々だろうが、なぜなのか、検証してみたい。思いついたままランダムに挙げると…。

・ 人間関係になじめない。
→郷に入っても、郷に従いたくないこともあるだろう。しかし、無言の圧力には逆らえない。決して必要以上に出る杭になってはいけない。いくら不合理だと思っても、地域の掟に面と向かって逆らってはならない。加えて沖縄の文化や慣習は尊重しなければならない。それを尊重しないところに友好な人間関係は生まれない。
サークル活動中、出過ぎた行動をした移住者がいた。沖縄の方たちから批判が続出した。彼の行動は、誰が見ても人を不愉快にさせるものだった。しばらくしたら会員ではなくなったという詳しい内容は、文末にリンクした。

・ 住環境になじめない。
→アパートに住むなら、町内会からの勧誘はなさそうなので、それほど問題はないだろうが、戸建て住宅はそうはいかない。住んだ集落の諸行事に欠席することは避けなければならない。よほどに事情がない限り 参加に努めよう。地域の氏神様の祭礼。各種運動大会などの諸行事。地域清掃への参加などなど。欠席ばかりしていたら、その地域には住めなくなるかも。それに衆院、参院から県会議員〜村会議員などの選挙の動員(これは保革両陣営が、しのぎを削っていることが多いので判断が難しいが…)は、住む場所によっては町内会の推薦する地元候補者の反対陣営に行ったことが分かると、翌日から口もきいてくれなくなることも…。沖縄は狭い島なので、近所付き合いは欠かせない。こうした諸行事を通して近隣の結びつきを強固にしてゆくという考えがあるのだろう。
町から離れれば離れる程、排他的になると国頭郡某村の一戸建てに住む私より先輩の移住者が言っていた。私もサークル内のメンバーのお一人(サークルに入ったばかりで、会ったときにあいさつする程度の人)から「模合(もあい:本土の頼母子講に相当する相互扶助システム)」に誘われたことがあった。そんなに親密になっていないのに どうして誘われたのか分からなかったので、丁重にお断りしたのだが、その後、冷ややかな態度に豹変された。

NEW 《追記》
先日、私が所属しているサークルの県大会があったので参加したら、最初に住んでいた地区のサークルの方々にお会いした。その中に、私を模合に誘ってくれた副会長(女性)がいたので聞いてみた。もう7年も前の話なので、正直に答えてくれた。
私「なぜ、サークルに入ったばかりで、それほど親しくなかった私を模合に誘ってくれたのですか?」
副会長「あなたはご存じなかったと思うけれど、その当時、役員と会員の間に複雑な問題があって揉めていたのよ。それで総会で多数決になったとき、一票でも多い方がいいので、会長と相談して私達の陣営に引き入れたかったのよ。そのあと、あなたが Yさん(反役員派)の紹介で入部したことを聞いたので、これ以上誘ってもムダだと分かったの」

その後、私が転居したころ、このサークルは役員派と反役員派に分裂したことを聞いた。不自然なアプローチには何かウラがあったのだ。こういうお誘いもあるようなので、知らないうちに騒動に巻き込まれないよう くれぐれもご注意を!なお、沖縄の方言に「いちゃりばちょーでー」ということわざがある。「一度会ったら皆兄弟」つまり、人間皆兄弟なのだから仲良くしようという意味。沖縄の人々の心の温かさを表している。半分は当たっているが、必ずしもそうでないこともある。
《今回の追記》終わり…。

・ 気候になじめない。
→亜熱帯の気候は、冬でも本土みたいに凍り付くような温度にはならないが、真夏は灼熱地獄だ。最高気温でも34℃を上回ることは少ないが、日差しは強烈である。一歩外に出れば、ジッとしていても汗がほとばしる。それが5月から10月まで、一年の半分くらい続く。私の所属しているスポーツクラブ(屋外)に参加する女性たちは、深い帽子と まるでイスラム文化圏の女性のようなフェイスカバーで日差しを防いでスポーツをしている。普段は目元しか見えない。忘年会で初めて顔全体を見たという人もいた。
さらに付け加えるなら、熱帯夜の日数である。熱帯夜というのは、最低温度が25℃を下回らなかった日をいう。夜でも25℃以上あるので、エアコンなしでは、とても眠れない。こんな日が沖縄では一年間に100日以上もある。平成29年は特に多く、那覇市では116日、宮古島で131日、石垣島では、なんと144日もあった。石垣島や波照間島では、その年、立冬を過ぎた11月8日でも熱帯夜を記録した。私も夜中、エアコンのタイマーが切れる度に目が醒める。

・ 食文化になじめない。
→何しろ沖縄といえば油漬け料理である。弁当を買えば、おかずは ほとんど揚げ物ばかり。食堂のメニューには「じゅーしー」というご飯がある。炊き上がりにバターかラードを加える。スーパーの総菜は、和え物でも油を使う。私は、未だに、これが一番なじめない。沖縄の有名なお菓子である「サーターアンダギー」は、油で揚げた菓子なのだ。揚げ油にラードを使っている店もある。

・ 本土から来る人にアレルギー住民がいる。
→沖縄は先の大戦時に本土の捨て石にされた歴史を持っている。沖縄戦で親や兄弟など最愛の人を失った人たちの、本土に対する遺恨は筆舌に尽くしがたい。今、沖縄に住んでいるのは、その子孫の皆さんである。中国や韓国が、いまだに日本に対して友好的でないように、沖縄でも本土人に対して快く思っていない人たちが少なからずいる。 本土から来た人に「やまとんちゅ」といえば、その言葉通り、大和の人という意味なのだが、なかには面と向かって「ないちゃー」という人がいる。この言葉は、本土人を蔑んだ言葉である。こういう人は、本土人に対して敵愾心を持っている。
私の名前は沖縄にはない苗字である。名前を聞けば沖縄出身でないことがすぐ分かる。会合で自己紹介をしただけで、「何だ、ないちゃーか」と言われたことがあった。腹を立てることなく、その後、普通に接したことで口はきいてくれるようにはなったが、毎週のように顔を合わせて8年経っても、打ち解けるに至っていない。

・ 理想と現実とのギャップ
→沖縄に数回来ただけで、沖縄は地上の楽園だとか、海がきれい、癒されるなどという理由で移住する人もいる。そんなものは、住めば幻想だったことが分かる。夢や希望はあくまで夢や希望に過ぎない。憧れだけで生活はできない。

・ 何でも本土と比較してはいけない
→本土では、こうだった。ああだったと口にする人がいる。沖縄の人は本土と比べられる発言を嫌う。思っても口にしてはいけない。本土の基準(自分の基準)だけでモノを考えてはいけない。そんなに本土の方がいいのなら、どうぞお帰り下さいと言われかねない。

・ 沖縄に来て仕事を探しても見つけるのは難しい
→特別なスキルを持った人なら就職先が見つかるかもしれない。ネットに、行けば何とかなると書いてあるサイトがあったが、沖縄は観光以外には産業が少ない。失業率も高い。新卒の高校生で地縁血縁があっても正社員の求人が少ないから本土の企業に就職する人が多いのだ。そんな沖縄にやって来ても、すぐに正社員の仕事が見つかるはずもない。時給737円の最低賃金でいいというなら仕事はある。ただし、妻帯者は家族を養えない。独身者は結婚もできないだろう。ちなみに沖縄県の職業安定所(ハローワーク)でさえ、勤めている人のうち正規雇用で働いている人は、わずか28.7%である。つまり、正職員は3人に1人もいない。これは全国の都道府県でも最低である(このサイトの「沖縄に仕事はあるか」は ⇒ コチラから)。

以上、思いつくままいろいろ書いたが、沖縄に限った話ではないが、長く住もうと思ったら、現地の人に嫌われるようなことを平気で口にしたり行動する人は移住には向かない。少ししか沖縄に住んでいないのに、知ったかぶりしてモノをいうのは嫌われる典型だといわれると、まるで私のことをいわれているような…。反省しないと、護得久(ごえく)先生に「チンダミ」されるかもしれない。「チンダミ」とは ⇒ コチラから

《追記》先日、那覇空港発の募集形式の離島ツアーに出かけた。初日の夕食は自由食だったので近くの居酒屋に行った。すると同じツアー客で自分は関東から移住してきたと自己紹介をした70代の夫妻が入ってきた。混んでいたので 私とは離れた席に座った。しばらくすると店の奥の方で、女将さんの荒げた声が聞こえてきた。男性が禁煙の店内のトイレの前でタバコを吸っていたようだ。「吸いたければ外へ行ってください」とたしなめられていた。
この客は、空港の集合時間には遅れてくる。一日目の観光でも決められた出発時間にバスに戻ってこないので、他のツアー客に迷惑をかけていた。そのうえ、バス内ではビールを飲みすぎたらしく、走行中にトイレ休憩を要求して運転手やガイドを困らせていた。離島なんだから、トイレ休憩のできるドライブインや道の駅がすぐにあるはずないだろうと思うのだが…。また、飛行機の席が窓際でなかったと旅行会社担当者に文句を言うなど、自分勝手な言動が目立った。こんな人もいるんだねぇ。沖縄だけに限った話ではないが、最低のルールさえも守れない人は どこに行っても嫌われると思うよ。

関連ページ 「こんな移住者は嫌われる」は ⇒ コチラから



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背景の「読谷山花織」は、「ゆたんざはなうぃ」または、「よみたんざんはなおり」と読みます。琉球王朝のための御用布として織られていました。絶滅寸前だったものを、昭和39年に読谷村で「幻の花織」として復活しました。