沖 縄 移 住 生 活 始 め ま し た
沖縄の西表島(いりおもてじま)に炭鉱があった話は、西表島ジャングル縦走ツアーに出かけたとき、浦内川の船長から聞いた。炭鉱があったのは70年以上も昔の話である。18世紀末に書かれた八重山の文書には、地域の産物として「燃石」の記述があったそうだ。
沖縄県立博物館の安里館長に寄れば、西表島の炭鉱は、昭和初期には年間12.3万トンを産出し、国内有数の炭鉱であったそうだ。当時の西表島の炭鉱は、労働環境が劣悪で、長時間労働やマラリアの猛威により命を落とす者が多かったという。そのなかで、昭和10年、浦内川支流の宇多良川近くに大規模な鉱脈が発見され、翌11年から宇多良(うたら)鉱業所が創業した。この宇多良炭鉱は、他の炭鉱と違って上下水道、防蚊装置をはじめ、病院、公民館、売店、映画館など娯楽用の施設から労働者の子供のための学校(後に移転した竹富町立上原小学校の前身)まであったそうだ。
しかし、昭和18年の空襲で施設は破壊され、終戦後はアメリカ軍に接収された。同24年には炭坑を再開したがうまくいかず、民間へ払い下げられた。同28年に琉球興発という会社が事業を再開したものの採算が合わず、同35年に休止状態となった。その後も再開の調査をしたが炭層が薄く採算が期待できないとされ、現在に至るまで放置されてきた(Wikipediaほかより)。この炭鉱が日本の近代化に果たした役割を後世に伝えるため、平成19年、日本近代化産業遺産群に認定された。ジャングルの中に建造物の残骸が点在している。写真はトロッコの支柱。竹富町観光協会ご提供。
平成30年8月、西表島の炭鉱を舞台に描かれた小説が発刊された。詳しく は⇒ コチラから
県道215号線の浦内川バス停から平坦な道が川に沿って道が整備されており、徒歩なら片道15分で炭鉱遺構まで行くことができ、レンタルカヌーで行くこともできるとか。前回はツアーだったので、ここに行くことができなかったが、次回、西表島へ行ったら立ち寄ってみたい。
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