沖 縄 移 住 生 活 始 め ま し た
2020年6月12日、火災後初めて首里城の旧有料区域が一般公開された。折しも、琉球新報が首里城の地下に戦時中の軍指令部壕があったという特集を見開き紙面で組んでいた。
私も、沖縄に移り住む前に首里城には何度も来ていた。そのときガイドさんから、戦時中、首里城に軍司令部があったことは聞いていたが、場所が地下壕だとは知らなかった。てっきり首里城の建物に司令部が置かれたと思っていた。
その地下壕の存在を知ったのは2015年ころ、首里城の敷地内に国土地理院の三角点があるというネット情報をもとに城の内外を隅々まで探し歩き回ったときのこと。園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきいしもん)から龍潭(りゅうたん:首里城北にある池のこと)方向に降りた左手に檻のような柵が見えた。
それは、ひっそりとした林の中にあった目立たない地下壕で、第32軍の司令部壕跡の入り口だった(上の写真:中、入り口に花が手向けてあった)。ただし、内部は崩落の危険があるとして公開されていなかった(上の写真:下、鉄骨の柱が見えるが、これは元々あったものではなく、平成になってから県が調査したときに補強したものと思われる)。那覇市観光資源データベースによると、地下壕の長さは1キロを超え、壕内には将校以下、約1000人が生活し、司令官室、参謀長室、作戦室、無線室食糧貯蔵庫のほかに兵隊などのベッドや炊事場、浴室にトイレまで完備されていたという。 壕のなかは、今でも湧き水が流れ、日々浸食が進んでいて岩盤が大きく崩落しているところもあるそうだ。
この第32軍司令部壕は、75年前の沖縄戦を語るうえで欠かせない戦跡で、前々から壕の保存、公開を望む声はあったが、今現在、高額な費用がかかるという理由で実現されていない。ただし、琉球新報によると、新しい動きとして那覇の市議会は、壕の保存・公開を求める意見書と要望書を知事に提出しており、壕の公開を求める世論は首里城再建の動きに伴い、徐々に高まってきているという。
なお、前述の三角点の場所は、ガイドさんや管理事務所の職員、当時、工事中だった御内原(おうちばら)工事事務関係者の方に聞いても、私がお尋ねした人は誰もご存じなかったので、何度も首里城に通って外壁の行き止まりにあったのを見つけることができた(下の写真)。
以下、壕の説明板の全文をご紹介する(原文のまま)。
第32軍司令部壕
32nd Army Headquarters Shelter
第32軍の創設と司令部壕の構築
1944(昭和19)年3月、南西諸島の防衛を目的に、第32軍が創設されました。同年12月、司令部壕の構築がはじめられ、沖縄師範学校など多くの学徒や地域住民が動員されました。1945(昭和20)年3月、空襲が激しくなると、第32軍司令部は地下壕へ移動し、米軍との決戦にそなえました。
壕内は五つの坑道で結ばれていましたが、現在、坑口は塞がれ、中に入ることはできません。
第32軍司令部壕内のようす
司令部壕内には、牛島満軍司令官、長勇参謀長をはじめ総勢1000人余の将兵や県出身の軍属・学徒、女性軍属などが雑居していました。戦闘指揮に必要な施設・設備が完備され、通路の両側には兵隊の二、三段ベッドが並べられました。壕生活は立ち込める熱気と、湿気や異様な臭いとの闘いでもありました。
第32軍司令部の南部撤退
1945年5月22日、日本軍司令部は、沖縄島南部の摩文仁への撤退を決定しました。本土決戦を遅らせるための、沖縄を「捨て石」にした持久作戦をとるためでした。5月27日夜、本格的な撤退が始まり、司令部壕の主要部分と坑口は破壊されました。司令部の撤退にともなう、軍民混在の逃避行のなかで、多くの将兵と住民が命を落とすことになってしまいました。5月31日首里は米軍に占領されましたが、沖縄戦 によって、首里城正殿をはじめとする琉球王国 の歴史を物語る貴重な文化遺産は失われてしまいました。
2012年3月 沖縄県
壕は首里城の地下を南北に縦断していた (写真提供:HP「沖縄県のガマと地下壕」) |
首里城にある四等三角点 |
・首里城について詳しくは ⇒ コチラから。
ナビゲーションはトップページにあります。 ⇒ TOPページへ
背景の「八重山ミンサー織」は、主に石垣島と竹富島で生産される織物です。最大の特徴は、五つと四つの絣に「いつ(五つ)の世(四つ)までも、末永く・・・。」という、女性から男性への想いが込められていることです。詳しくは ⇒ コチラから。