首里城下から水路の遺構発見


首里城の龍潭(りゅうたん・注1)池と、その向かいにある中城御殿(注2)跡の間の道路下から琉球王国時代の水路が姿を現した。平成29年12月23日、県立埋蔵文化センターの発掘調査現地説明会があったので、見学して写真を撮影してきた(以下、本文は当日の資料と説明に基づき作成。写真のうち、航空写真は説明会の資料をcopy)。



当蔵旧水路の航空写真

首里城下周辺、赤い点線部分が今回発掘された部分(黄色の文字はサイトの管理人が補足)

旧水路 航空写真
発掘された旧水路 旧水路を上空から撮影、上方向が龍潭側、下は中城御殿側
発見された旧水路 発見された旧水路
歩道の地下から発見された旧水路


県が那覇市首里で行っている街路整備の工事現場で、石積みの「首里当蔵旧水路」の遺構が発掘された。この水路は首里城北側の池「龍潭」沿いにあり、アスファルトの歩道をはがしたところ、コンクリートの暗渠が見つかった。その後、暗渠を外して発掘を進めると石積みの水路遺構が見つかったという。水路は琉球石灰岩で造られ、幅約70センチ、深さ60センチ、全長約60メートルに及ぶ。

旧水路はこれまで、那覇市教育委員会の調査で部分的に見つかっており、同センターは、旧水路について、現地から400メートルほど東にある現在の首里図書館裏にあった蓮小堀(りんぐむい注3)と龍潭をつなぎ、琉球王国時代、大雨時にあふれた池の水を龍潭に流し込む役割を果たしていたとし「琉球王国時代をしのばせる遺構」と推察している。この水路の西の端は、龍潭池の西端にある世持橋まで通じている。

造られた年代については、明治に撮影された写真に水路遺構が写っていることから、それ以前ということは確かで、琉球王国時代に造られたことは間違いないが、どの時代まで遡るかについては、調査区が狭くその下の層までの掘削が困難で、現時点でははっきりと分かっていないそうだ。

なお、琉球新報によれば、県の土木建築部では、龍潭と県道の段差を補強する擁壁を造るため、発見された水路を記録保存(注4)して取り壊す方針であったが、説明会が行われた4日後の12月27日、沖縄考古学会から遺構の保存と活用を求める要請書が出された。これに対し県土木建築部は、工事を一時中止し、保存を視野に入れた工法の見直しを検討したいという。



(注1)龍潭(りゅうたん)…1427年、琉球王国の第一尚氏王統・第二代尚巴志王の命により作庭されたといわれる人工の池。魚が多く住み、魚小堀(いゆぐむい)とも呼ばれた。掘った土は龍潭西岸に盛って木々を植え安国山を築造した。龍潭では、その後冊封使が来琉した折には、池に龍船を浮かべ船遊びの歓待の宴が行われた(Wikipediaより)。

(注2)中城御殿…琉球王国の世子(せいし:次期国王)の邸宅として、17世紀に現在の首里高校の敷地に建てられたが、1875年に龍潭の北に移転した。琉球王国崩壊後は、旧王家の別邸として使われたが、沖縄戦で破壊され、戦後は県立博物館が建てられたが、その博物館は、平成18年に “おもろまち” に移転した。詳しくは ⇒ コチラから

(注3)蓮小堀(りんぐむい)…詳しくは ⇒ コチラから

(注4)記録保存…埋蔵文化財が開発によって、やむなく現状保存できず失われる場合、その文化財の調査結果を資料として残すことをいう。

地図をご覧になる方はコチラから ⇒ 当蔵水路の遺構 


ナビゲーションはトップページにあります。⇒ TOPページへ

背景の「読谷山花織」は、「ゆたんざはなうぃ」または、「よみたんざんはなおり」と読みます。琉球王朝のための御用布として織られていました。絶滅寸前だったものを、昭和39年に読谷村で「幻の花織」として復活しました。