京大はん、「骨」返しとくれやす!


百按司墓

百按司墓・第1号墓所、左後方に見えるのは第2号墓所


《追記》《京都地裁の判決》は一番下にあります。

私の学生時代、京都では同志社大生は「同やん」、立命館大生は「りっちゃん」と府民から親しみを込めて呼ばれた。それに対し、京大生は「京大はん」だった。「京大はん」は他校とは別格で一目(いちもく)おかれ、敬意と羨望の目で見られていたのだ。

その敬意と羨望の目で見られていた京都大学の金関助教授が、昭和初期、沖縄県今帰仁(なきじん)村の百按司(むむじゃな)墓(注1)に埋葬されていた人骨を持ち去って、90年経った今も返していないというのだ。これに対し今帰仁村の教育委員会は、京大に対し遺骨の返還要請をしているが、大学側はこれを無視し何の回答もしないことから、琉球民族遺骨返還研究会は、この夏(平成30年)にも京都地裁に遺骨返還と再埋葬、謝罪を求めて民事訴訟を提起することを決めたのだ。私は婉曲に「持ち去った」という表現にしたが、平成30年1月に開催された「東アジア共同体・沖縄(琉球)研究会」主催の公開シンポジウムでは、「金関氏による百按司墓からの琉球人遺骨持ち出しは 、研究倫理にもとるのみならず、琉球人の伝統的な信仰や生活を無視した死者への冒涜であり ”盗掘” である」と断罪している。

発端は、京都帝国大医学部解剖学教室助教授だった金関丈夫(かなせき たけお)氏が昭和4(1929)年、今帰仁村にある村指定文化財「百按司墓」から遺骨を京大に持ち帰ったことに始まる。 当時の新聞記事(注2)には、男女の全身骨50体超が百按司墓から持ち出され、京大の人類学教室に移されたとしている。その後、金関氏は、日本統治下にあった台北帝国大(現・台湾大)医学部教授に就任し、63体を台湾に持ち込んだ。昨年(平成29年)、台湾大は、この遺骨を返還する意向を示した。また、金関氏は、中城村(なかぐすくそん)では、墓地から人骨を持ち去ろうとして、地元の人から制止されたこともあったという。

京大は、昨年9月、照屋寛徳衆院議員(沖縄2区選出)からの照会で、遺骨を保管していることは認めたが、沖縄から持ち去った人骨の保管数や保管状況について回答を拒んでおり、京大広報課は京都新聞の取材に対しても「問い合わせに応じない」としている。 これまで、京大が収集人骨の返還に応じた例はないとみられている。また、自治体が大学に返還を要請するのも異例である(以上、47news、京都新聞、衆議院質問本文情報などを参考に作成)。

京大はん、遺骨も故郷に帰りたいんとちゃいますやろか。返したってちょ〜だい!。

(注1)百按司(むむじゃな)墓…沖縄県今帰仁村字運天(うんてん)にある琉球史上著名な墓。墓の名称である「按司(あじ)」は、沖縄のグスク(沖縄では「城」の意味)を築いた有力な首長の呼称で、名称の「百」は「たくさん」という意味なので、たくさんの按司の墓という意味。 第一尚氏(注3)に関係する墓所ともいわれている。16世紀以前に成立したとの見方もあり、漆を塗った家型の木棺など、琉球の葬制を知る上で最古級の資料とされている。

(注2)昭和4年1月26日付けの「琉球新報」には「京大が遺骨50体超の持ち出し」の記事があり、当時の京都帝国大学側は、遺骨の返還にも応じる意向を示していたとあるが、誰が返還を明言したのかには記述がなく、また、「学会への奉仕」などと見出しもつけられており、旧帝大の研究におもねる論調も見られる(この稿は平成30年5月29日付け琉球新報より)。

(注3)第一尚氏…第一尚氏(だいいちしょうし)は、尚巴志(しょうはし)が築いた7代63年間(1406年- 1469年)続いた琉球最初の統一王朝。初代王は尚巴志の父尚思紹(しょうししょう)。後に 家臣だった金丸のクーデターにより滅亡したが、金丸が尚円と名乗り子孫も代々「尚」の名を継いだため、前政権の尚家と区別するため第二尚氏(だいにしょうし)と読んでいる。

《ご参考》北海道では、浦幌アイヌ協会が北海道大学に、研究目的で保管しているアイヌの遺骨の返還を求めた訴訟では、北大が遺骨、計76体を返還することで札幌地裁で和解が成立している。

《追記》
琉球新報によると、沖縄県今帰仁村の百按司墓から持ち出した遺骨返還と、損害賠償を求め琉球民族遺骨返還研究会が京都地裁に提訴したのに対し、 京都大学は京都地裁に答弁書を提出し、原告側と全面的に争う姿勢を示した。
京都大は遺骨返還と損害賠償請求に対し、いずれも棄却を求めた。 京都帝国大(現在の京都大)の研究者によって遺骨が持ち去られた経緯や、現在、同大が遺骨を保管していることについて、ともに違法性はないと主張している。
琉球遺骨返還請求訴訟の原告団と弁護団が明らかにした同訴訟は、平成31年3月8日、京都地裁で第1回口頭弁論がある。 京都大は答弁書で、研究者が当時の県庁などから許可を得たことを挙げて、今帰仁村の百按司墓から遺骨を持ち出したことは、盗掘には当たらないと主張している。

NEW
京都地方裁判所の増森珠美裁判長は「原告ら以外にも参拝している子孫は多数存在し、原告に返還請求権はない」などとして訴えを退けた。しかし、判決では、遺骨は学術的に貴重で、返還の是非は関係機関を交えて整備が図られるべきとも言及していている、原告は控訴する方針という(2022/04/21 京都新聞Webより)。

毎日新聞Webによれば、原告敗訴の判決が言い渡されると、法廷の傍聴席に集まった支援者らから、「裁判長、間違っています」「理由をお願いします」と、怒号が法廷内に響いたという。また、2017年、京大に遺骨の確認を申し入れたが拒否され、話し合いのため事前連絡して京大を訪ねても、警備員を介して「会う必要はない」と門前払いされた石垣市出身の龍谷大学の松島教授は「遺骨は墓にあってこそ意味がある。沖縄県が本土に復帰して50年になるが、裁判所は私たちを人間と認めないのか。私たちは文化や言葉だけでなく、遺骨まで奪われて返してもらえない。負けるわけにはいかない。控訴して闘う」と憤った。

同じような問題で遺骨の返還を求められた北海道大学では、2019年「遺骨の保管・管理が、 アイヌ民族の尊厳に対する適切な配慮を欠いており,極めて遺憾であり,真摯に反省しております」と謝罪し、保管していた119対の遺骨を返還した(北海道大学HPより)。北大では、文科省の「アイヌの遺骨等の返還手続きガイドライ」に基づいて遺骨の返還を行った。何故、沖縄では適用されないのか?。

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背景の「読谷山花織」は、「ゆたんざはなうぃ」または、「よみたんざんはなおり」と読みます。琉球王朝のための御用布として織られていました。絶滅寸前だったものを、昭和39年に読谷村で「幻の花織」として復活しました。