沖縄のお墓−島は狭いがお墓は広い−


初めて沖縄に来たとき、定期観光バスで島めぐりをした。そのとき、石造りの古い大きな建物がやたら目についたので、バスガイドさんに「あれは何ですか?」と聞いたら「お墓ですよ〜」という返事に、私だけでなく他の乗客の皆さんも「エッツ〜」と声を上げて驚いた。そのときの印象が強烈だったので、ガイドさんの説明を真面目に聞いた。詳しい内容は忘れても「亀甲墓(きっこうはかorかめこうはか)」「破風墓(はふーばか)」という墓の種類だけは、いつまでも記憶に残った。



玉陵

第二尚氏王統の陵墓である玉陵、沖縄で最大の破風墓

先日、新聞の川柳の投稿で天賞になった作品に、
「家よりも広くてりっぱな基地と墓(宮城睦子さん)」
という句があった。まさにそのとおり、基地はさて置き、沖縄のお墓は広くてデカイ。本土の墓が位牌をイメージしているのに対し、沖縄の墓は家の形をしている。沖縄の古いお墓の中で最も一般的な形をしたものは「亀甲墓で、墓の上に亀の甲羅を乗せたような墓である。なかには、要塞のような巨大な墓もある。それより古いのは「破風墓」で、これは王家の墓によく見られる。この他、士族に見られるのは「平葺墓(ひらふきはかorひらふちばー)」という。これらの墓の原型は、崖の中腹のすき間や穴を利用して棺を収め、前面を石で覆う崖葬墓で、それが丘陵の斜面に横穴を掘って前面と上部を加工する形式の「平葺墓」や「破風墓」に発展したといわれている。

墓が大きい理由はいくつかある。
一つは、埋葬の方法である。沖縄では昔から火葬ではなく風葬の慣習があったので、遺体を収めた棺桶を墓室に安置するためには、棺桶を入れるだけのスペースが必要だからである。

二つは、一旦、棺桶に入れてから、3年から5年目を目安に遺骸を取り出し、洗い清めて(洗骨という)、厨子甕(ずしがめ:遺骨を納める蔵骨器)に納める。そのため、全身の骨格を収めるには厨子甕や石棺などは相応の大きさなのである。

三つは、墓が個人墓ではなく、門中(もんちゅうorむんちゅう)墓といって、家族や一族など集団の墓だからで、何代にもわたって使用され、多くの人々の厨子甕を収納する必要があるから大きいのである。日本最大の墓といわれている糸満市の「幸地腹(こうちばら)・赤比儀腹 (あかひぎばら)門中の墓」の面積は、5,400平方メートル(1,600坪強)もあり、テニスコート8面分くらいに相当する。まるで、大和の古墳時代の豪族の墳墓のようだ。この「幸地腹…」の墓は、HP「沖縄観光webサイト」によると、現在、5,500人を埋葬しており、本土の人には信じられないことだろうが、一族のほぼ全員の共同墓となっているという。

四つは、沖縄では清明(しーみー)のとき、墓の前に一族が集まって先祖を供養するため大宴会(宴会というと表現が悪いかもしれないが、料理を食べてお酒も飲んで、三線を弾いて踊ったりするので、私から見ると宴会をしているように見える)をするので、広くないと都合が悪いのである。そのためか、墓の前に庭があり、芝生になっている墓を見たこともある。 しかし沖縄は島の面積が狭く、巨大な墓ばかり作っていては土地が足りないので、昭和47年の本土復帰以降は、家族墓、分家墓、団地墓に移行している傾向があるそうだ。

このページは、沖縄県立博物館・美術館長 田名真之氏「沖縄の墓について」また、元沖縄県立博物館・美術館館長 安里進氏「お墓と琉球王権のグスク・玉陵の意外な関係」などを参照して作成。



伊是名殿内の墓 宜野湾御殿の墓
亀甲墓(左:伊是名殿内の墓、右:宜野湾御殿の墓)
豊見城按司の墓 儀間真常の墓
破風墓(左:豊見城按司の墓、右:儀間真常の墓)
最近の墓 墓の団地
最近の墓のタイプ(姓にはボカシを入れた)昔に比べれば小さいが、本土の墓より大きい
与那国島の墓 清明祭の様子
与那国島の墓 墓の前で親族が集まる清明(読谷民族資料館の展示を撮影)


お墓は墓地にあるだけではない。都市の中心部の市役所の隣にあったり、マンションの裏にあったりと、沖縄には、市内でも郊外でも、どこにでも墓がある。家探しをしていて気に入った物件があっても、住宅密集地なのにアパートに隣接してお墓があったり、窓から墓が見えた物件が何件もあった。ある物件は、高台で見晴らしもよく閑静な住宅地だったので契約する気になっていた。しかし、グーグルの空からマップを見たら塀の隣が墓だったということもあった。アパートを案内してくれた不動産会社の営業マンも「沖縄では、ありふれた景色ですよ」と言う。本土の墓地とは、まったく雰囲気が違うので、私は、さほど気にならないが、家内はお墓の近くは霊が彷徨(さまよ)っているのでイヤだと言う。気持ちは分かる。



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背景の「読谷山花織」は、「ゆたんざはなうぃ」または、「よみたんざんはなおり」と読みます。琉球王朝のための御用布として織られていました。絶滅寸前だったものを、昭和39年に読谷村で「幻の花織」として復活しました。