沖縄県人の先祖崇拝はスゴイ


本島南部の歴史深訪(古代遺跡廻り)という野外実習の講座に参加した。最後に立ち寄ったのは、南城市玉城の尚泰久(しょうたいきゅう)王の墓だった。そこで聞いた話である。

尚泰久王は、第一尚氏の第二代王・尚巴志(しょうはし)の七男だったが、第六代の琉球王に即位した。尚泰久は、在位中、仏教に帰依し、寺院の建立が盛んに行い、1458年には「万国津梁の鐘(注1)」を鋳造して王城の正面に掲げた。泰久の死後、遺骨は第一尚氏の陵墓「天山陵(注2)」に葬られたが、第二尚氏が実権を握ると墓が破壊されるのを恐れ、部下たちが泰久王の骨を読谷山伊良皆(ゆんたんざいらなみ/現在の読谷村)の山中に隠した。その後、母と乳母の手によって美里間切伊波村(現在のうるま市石川)に密かに移葬され、泰久の墓であることが分からないよう「クンチャー墓(意味は乞食墓)」と呼ばれていた。つまり、墓を荒らされることのないように隠したのだった。

第一尚氏とか第二尚氏というのは、沖縄も日本の戦国時代と同様、本島は、北山、中山、南山の有力武将が群雄割拠していた。それを統一したのが第一尚氏の尚巴志(しょうはし)だった。第一尚氏は七代続いたが、七代王尚徳のとき、家臣の金丸のクーデターで滅ぼされた。金丸も同じ尚氏を名乗って、第一尚氏の痕跡を抹殺しようとした。そして、その後、400年にわたり、明治になって琉球が日本に併合されるまで島を支配した(薩摩に支配されていたことは、話が長くなるので、ここでは触れない)。なお、琉球を統一したのは尚巴志だが、第一尚氏の初代王は、尚巴志の父、思紹(ししょう)である。息子の尚巴志の要請で初代の王位についたといわれている。

その第一尚氏の第六代王だった尚泰久だが、死後、第一尚氏の王が祀られる天山陵(てぃんさんりょう)に葬られた。ところが、天山陵は、政権を握った第二尚氏の手によって焼き討ちに遭うことを察知した第一尚氏各王の部下や子孫たちは、骨を持ち出して隠した。それで第一尚氏の各王の墓は、第二尚氏の「玉陵」のように1か所ではなく、現在も各地に分散しているのである。



天山陵 天山陵


上の図:右の『墓』が天山陵をさす。第一尚氏王統第二代王・尚巴志(しょう はし、1372〜1439)らの陵墓と推定されており、1983年の発掘調査で石棺の台座が出土した。東隣は鍛冶奉行所(沖縄県立図書館デジタル書庫よりお借りした)。

初代の思紹の墓は南城市航空自衛隊知念分屯地内、二代〜四代目の巴志・尚忠・思達は読谷山伊良皆の佐敷森、五代目の金福は浦添市にある米軍施設内、六代目泰久は、南城市玉城富里、七代目尚徳は那覇市識名にある。なお、遺骨は各地を転々としているので、ここに挙げた以外にも同じ王の墓跡が各地にある。

時は流れ明治41年、泰久の遺骨は子孫たちによって、2日がかりで石棺を王の長男である本島南部の南城市玉城富里にある安次富加那巴志(あしとみかなはし)の墓の隣に移葬した。450年も経って、第二尚氏の迫害の心配がなくなってから墓を南部に移したのである。450年間という計り知れない長期間、人々に乞食墓といわれてまでも、ひたすら人目に付かないところに遺骨を隠していたというのだから、沖縄の人々の先祖に対する思いは、涙なくして語ることができない。いかに血統の重さを大切にしているかが分かる。

沖縄では、新暦4月の清明祭で先祖供養を行うが、第一尚氏の末裔たちは、今でも清明祭には先祖供養をしない。何故なら、第二尚氏からの攻撃に備え、9月23日に「隠れ清明祭」と称して県内各地に散った一門が集まり、ごちそうをささげ、王家の供養と御先祖様に感謝し、一族の繁栄を祈っているそうである。ところが、互いに第一尚氏の末裔であることを隠していたので、集まっても互いに話すことはしないという。第一尚氏滅亡から500年以上も血統を隠しているのである。(この話は、一部、第一尚氏の末裔、宮城春子さん談を参考にした)

(注1)万国津梁の鐘(ばんこくしんりょうのかね)…この鐘の銘文に有名な「万国津梁」の文字のあることから、万国津梁の鐘と呼ばれるようになった。万国津梁とは、世界を結ぶ架け橋の意味がある。国指定の重文。沖縄県庁の知事公室にもこの文を写した屏風が置かれ、会見などでTV出演する知事の背景画面になっている。また、沖縄サミット会場も「万国津梁館」と名づけられるなど、海外に雄飛する沖縄の象徴として使われている。

(注2)天山陵(てぃんさんりょう)…現在の首里池端町にあった第一尚氏の王の陵墓。天山陵のあった場所は、現在、個人所有となっているので見ることができない。天山陵について、詳しくは ⇒ コチラから


  ナビゲーションはトップページにあります。

   TOPページへ