沖 縄 移 住 生 活 始 め ま し た
琉球王朝の頃のお話である。南風原親方守周(はえばる うぇーかた しゅしゅう)という役人がいた。彼には大きな悩みがあった。歳をとるにつれて、髪の毛がどんどん薄くなっていくことだ。髪の毛が薄くなるのは加齢のせいなので止むを得ないのだが、そのことで悩んでいた。それは、当時の琉球王府に使える役人は、年齢に関係なく髪の毛が無くなったら、ただちに引退しなければならないという非情な掟(おきて)があったからである。引退すると、当然のことながら無職となり、今までの階級(たとえば「親方(うぇーかた)」とか「親雲上(ぺーちん・ぺーくみー)」)を名乗ることができなくなるばかりか、着る服もすべて改めなくてはならなくなってしまうのである。
そして、1728年、大和の年号だと享保13年だから江戸時代中期のこと。南風原親方守周は、ついに髪の毛が無くなってしまった。引退の危機に立たされた守周は、「私はハゲてしまいましたが、クビにしないでください。今までどおり国王に仕えさせてください」と王府にお願いを立てた。すると、それまで真面目に務めていたことが評価され、頭には常に頭巾をかぶり、国王に拝謁するときも頭巾をかぶることを条件に特別に許可された。守周は今まで通り、出仕できる様になったばかりか、さらにそれを聞いた国王から頭巾が下賜されたそうだ。そのことがあった後からは、王府ではハゲても頭巾をかぶることが、後世まで継承されていったという。
以上は、琉球の歴史書「球陽 (注)」による。
話は変わるが、大相撲で大正時代に活躍した横綱 栃木山は、ハゲて大銀杏を結えなくなったとして33歳で引退したそうだ。涙の出るようなせつない話だが、栃木山は引退後、独立して春日野部屋を開き、「栃錦」、「栃ノ海」などの名横綱を育てた名親方になった。親方は、なかなか勝てない弟子には、厳しくするだけではなく、親身になってハゲましたそうだ。 (^-^)
大相撲以外は「沖縄・琉球の歴史」(上里隆史著)、「あやしい!目からウロコの琉球・沖縄史」(同)などを参考に作成 。大相撲の栃木山が名親方になったところまでは、本当の話。
(注) 球陽(きゅうよう)…1743年〜45年に琉球王国の正史として編纂された史書。書名の『球陽』とは琉球の美名であり、日本国内では岐阜を「岐陽」とか「華陽」、長崎を「崎陽」と称したのと同様と考えられる(Wikipediaなどより)。
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