明治政府は為朝伝説を利用した


為朝上陸の碑

『源為朝上陸の碑』

今帰仁村運天港

最近、琉球の歴史に興味を持ち、足繁く図書館通いをしている。もともと歴史学科出身なので、日本史の教科書に出てくる登場人物なら、名前を聞けば何時代のどういう人物かは思い浮かぶのだが、琉球の歴史の登場してくる人物には、全くなじみがない。名前を聞いても いつの時代の人物かさえ分からないので、まず、琉球の通史から読み始めた。

そのなかで、興味深い人物が登場した。舜天(しゅんてん)という国王である。NET情報の受け売りだが、舜天について説明すると、生存期間が、1187〜1259年というから日本の歴史では源頼朝が鎌倉に幕府を開いた頃に生まれ、幕府の実権を北条時宗が握っていた頃に亡くなっている。舜天王統の初代の国王で、琉球の正史『中山世鑑』などでは、舜天は保元(ほうげん)の乱で伊豆大島に流刑となった源為朝の子であるという。その後、為朝は追討を受け伊豆大島から逃れたが、その途上、船が嵐に遭い、沖縄本島の今帰仁に漂着した、というものである。『中山世鑑』における記述では為朝が上陸した地の豪族・大里按司(あじ=首長)の妹と結婚し、生まれた子を尊敦(そんとんorたかあつorたかのり)と名付ける。尊敦は15歳で浦添按司となり、琉球最初の王統ともされる天孫氏王統を滅ぼした利勇を討ち、22歳の時に諸侯の推挙を受けて中山王となった。尊敦が後の舜天王と伝えられる。これが真実であるとすれば、舜天王と鎌倉幕府を起こした源頼朝は従兄弟(いとこ)同士ということになる。


この舜天王が源為朝の子であったという荒唐無稽とも思われるお話を、政治的に利用したのが明治政府だった。琉球は明治維新後、政府によって王府を廃され県になった。つまり、琉球は強制的に近代日本国家に組み込まれていった。歴史上、琉球処分といわれるものである。明治の中期以降になると知識人による沖縄改革が行われる。それは旧琉球人民の「自分達は日本人」との意識を徹底させることにあった。その一例が、北部の今帰仁村にある源為朝上陸碑である。

この為朝上陸の碑は、大正11年(1922)、沖縄県国頭郡教育部会によって建てられた。題字は、ロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎の揮毫である。では、何のためにこの碑を建てたのか?。国頭郡教育部会は、戦前の沖縄で忠君愛国の思想を沖縄の人々に浸透させる目的で、社会教育活動を行っていた。沖縄県民は皇民であるという日・琉同祖論の権威付けのために、当時の英雄だった東郷平八郎に題字を依頼したと思われる。沖縄が日本の一部であるという主張は、戦後の日本への復帰運動へと発展していく。琉球独立論はあったが、現実的ではなかった。支配される国だった沖縄の側から、積極的に祖国への復帰をめざしていた近代沖縄にとって、現実的な選択肢はこれ以外になかったのだろう。こうして伝説を基にした為朝上陸碑は建てられたのだった(HP「ガイドと歩く今帰仁城跡」などより)。

なお、余談だが、伊豆大島に流された源為朝が、追討を逃れるため奄美諸島を渡り歩く途中に暴風にあい、今帰仁(なきじん)の港にたどり着いた。嵐の中で運を天に任せてたどり着いたので、港の名を "運天港" と命名したといわれている。また、為朝は妻と乳飲み子を琉球に残し、牧港(まきみなと)から一人で旅立って行った。そして、二度と琉球には帰って来なかった。この時、為朝が船を出した浦添にある牧港の名前の由来は、為朝の妻と子が、為朝の帰還を待ちわびた港、"待ち港" が訛ったという説がある。どちらも、よく出来た話である。

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