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万国津梁の鐘


万国津梁の鐘

県の博物館に置かれている本物の鐘


万国津梁の鐘は、「ばんこくしんりょうのかね」と読みます。正式には首里城正殿鐘といいます。 1458年に琉球王国第一尚氏王統の尚泰久王が鋳造させた釣鐘(梵鐘)です。その当時は、首里城正殿に掛けられていたそうです。

高さ154.9センチ、口径93.1センチ、重さ721キロ。この鐘の銘文に有名な「万国津梁」の文字のあることから、万国津梁の鐘と呼ばれるようになりました。万国津梁とは、世界を結ぶ架け橋という意味です。首里城に掛けられているものはレプリカで、本物は、県立博物館に保管されています。 1978(昭和53)年6月15日に「銅鐘(旧首里城正殿鐘)」の名称で国の重要文化財に指定されました。

2000年開催の沖縄サミットの会議場になった万国津梁館(ばんこくしんりょうかん)は、この鐘から名前をとっています。 焼失する前までは、首里城の城郭内へ入る第3の門である漏刻門をくぐった無料エリアの板葺きの堂内にありました。 もともと、首里城のどこにあったのかは不明でしたので、正殿が再建された後は、どこに置かれるでしょうか?。

沖縄県知事の会見のときの後ろにある漢文が、この鐘の文章です。鐘には、233文字の銘文が彫られています。その中に「万国津梁」という4文字があります。その内容は「琉球王国は南の海にある蓬莱の島で船を万国の架け橋にして貿易によって栄える国である」ということで。海洋国家としての気概が謳われているのです。漢字ばかりで読みにくいので、読み下し文を掲載します(HP「万国津梁の鐘(旧首里城正殿銅鐘)」銘文より)。

琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀(しう)を鍾(あつ)め、大明(だいみん)を以て輔車(ほしや)と為し、日域(じちゐき)を以て唇歯(しんし)と為して、此の二つの中間に在りて湧出せる蓬莱島なり。
舟楫(しうしふ)を以て万国の津梁(しんりやう)と為し、異産至宝(いさんしほう)は十方刹(じつぱうさつ)に充満し、地霊人物は遠く和夏の仁風(じんぷう)を扇(あふ)ぐ。
故に吾が王、大世(おほよ)の主、庚寅(かのえのとら)に慶生す。
尚泰久(しやうたいきう)なり。茲(ここ)に、宝位を高天(かうてん)に承け、蒼生(さうせい)を厚地(こうち)に育む。
三宝を興隆し、四恩に報酬せんが為に、新たに巨鐘(きよしよう)を鋳(い)て、以て本州中山国王殿(ちゆうざんこくわうでん)の前に就け、之を掛着(かいちやく)す。
憲章を三代の後より定め、文武を百王の前より?(あつ)め、下は三界の群生(ぐんじやう)を済(すく)ひ、上は万歳(まんざい)の宝位(ほうゐ)を祝ふ。
辱(かたじ)けなくも、相国(しやうこく)の住持(ぢゆうぢ)溪隠安潜叟(けいいんあんせんそう)に命じて、銘を求む。銘に曰く、 須弥(しゆみ)の南畔(なんぱん)、世界洪宏(こうくわう)たり。
吾が王出現して、苦しむ衆生を済(すく)ふ。
流れを截(た)つ玉象(ぎよくしやう)、月に吼ゆる華鯨(くわげい)、
四海に泛溢(はんいつ)し、梵音声(ぼんおんじやう)を震はし、
長夜の夢を覚まし、感天(かんてん)の誠を輸(いた)す。
堯風(げうふう)は永く扇ぎ、舜日(しゆんじつ)は益々明らかなり。
戊寅(つちのえとら)のとし六月十九日辛亥(かのとゐ)のひ、
大工 藤原国善
住相国溪隠叟(けいいんそう)、これを誌(しる)す。




万国津梁の鐘

沖縄県知事が会見するときは、この屏風の前で行う(県のHPより)。




意味は、「琉球王国は南海の景勝の地にあって、朝鮮のすぐれたところを集め、中国と日本とは非常に親密は関係にある。この日中の間にあって湧き出る理想の島である。船をもって万国の架け橋となり、珍しい宝は至るところに満ちている(一部です)。」

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