沖 縄 移 住 生 活 始 め ま し た

琉球王国時代の身分制度

琉球王国時代の身分は、士族と平民に分けられる。沖縄に住み始めたころ、歴史上の遺跡を巡ったり、歴史小説を読むと、人物名に「親方」「親雲上」や「里之子」といった文字が見受けられた。人の名なのか役職名なのか、よく分からなかった。それぞれ「うぇーかた」「ぺーちんorぺーくみー」「さとぬし」と読むことが分かったのは、ずっと後になってからのこと。それまでは、勝手に「おやかた」「おやうんじょう」「さとのこ」と勝手に読んでいた。それが位階だと分かってから、詳しく調べてみた。皆さんが沖縄に来て、史跡などを回ったときのご参考までに。

士族と平民の違いは、「家譜」があるかないかで決まる。家譜とは家系図のこと。士族は系図を持っているが、平民にはない。ただし、平民でも村人が推挙したり、技能や献金で士分に取り立てられる者もおり、女性でも士籍を得た者がいたそうで、それほど、厳密ではなかったようである。 安土桃山時代、堺の住人であった川崎利兵衛は、茶器を求めて長崎に旅立つ。そして鹿児島経由で琉球に渡った。彼は、そのまま琉球に住みつき、名護親方のもとで働き、商才を生かして東南アジアとの貿易の担当となり、その後、糸数村の地頭(地方役人)となり、士族として代々使えたという。士族と平民の違いが、ゆるかったという例である。

位階の一番上は国王。その下が王族で、「按司」とよばれる。読みは「あじ」で、大和では宮家に相当する人たちである。按司の下は「親方」だが、相撲部屋の親方ではない。大臣クラスのエライ人達である。その下は「親雲上」である。そして、その下は高家格の場合は「里之子」「子(しー)」で、ヒラの士族は「筑登之(ちくどぅん)」「仁屋(にやー)」と続く。

琉球の五大偉人である「程順則(ていじゅんそく)」は、名護親方。島津に抵抗したのは謝名(じゃな)親方、琉球の偉人「祭温(さいおん)」は、具志頭(ぐしちゃん)親方と呼ばれる。 琉球の三山時代の武将の一人だった「国吉親雲上」、空手の松村宗棍 は、「筑登之親雲上」 風水では「神山里之子親雲上」、囲碁の「浜比嘉親雲上」、安和岳の山賊と呼ばれた「幸地里之子 」、天山稜に祀られていた尚泰王の遺骨を第二尚氏からの攻撃に備えて移動したのは、平田子(ひらたしー)と屋比久子 (やびくしー)という具合に名前と位階がくっついている。

更に、沖縄の名前を複雑にしているのが、唐名(とうめいorからな)である。唐名とは、琉球人なのに、中国名を名乗ったのである。なんのためかというと、 中国へ進貢するときなどで、使者の名や乗組員の名簿などに中国名を記す必要があり、中国的名前を用いる必要があったのである。 唐名の最初の氏名も親子代々踏襲されるようになっていき,、そこに17世紀後半、家譜の編集が始まると、氏名は一族(門中)を象徴するものとなった。 たとえば、前述の祭温というのは、実は唐名で、琉球名は、具志頭親方文若(ぐしちゃんうぇーかたぶんじゃく) という。15世紀の按司、護佐丸は、琉球名は、中城按司 護佐丸 盛春(なかぐすくあじ ごさまる せいしゅん)、唐名は毛国鼎(もうこくてい)。ただし何れも後世に付けられたものである。 護佐丸の子孫は、代々、毛氏を名乗り、護佐丸の子孫は、王府の高官になった者が多く、一族は大いに繁栄した。護佐丸を祖先とする門中(注1)は、5〜10万人といわれている。

以上のように、琉球士族は、姓と家名と位階を持つ。そして、家名は名字に相当する。

位階によって冠(かんむり)の色も異なる。「按司」は錦の浮織。「親方」は、紫。「親雲上」は黄色。「里之子」「筑登之」「子」は、赤。「仁屋」は青である。聖徳太子の時代の冠位十二階みたいである。

また、簪(かんざし)も、上位から順に金簪、花金、茎銀簪、銀簪、銅簪に区分けされる。平民は、真鍮、木、べっ甲などが用いられる 。

なお、昇進については、功績のあった者の実力ということだが、実際には、家格、筋目によって異なり、世襲が一般的だったそうだ。

(注1)「門中(もんちゅうorむんちゅう」について詳しくは ⇒ コチラから


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