浦添は「うらおそい」ではなかった?


このページは、"浦添は「うらおそい」ではなかった?" というタイトルだが、本土の方には、「何のコッチャ」と思われるだろう。実は私は、学生時代に日本史を専攻していたこともあり、こちらに来てからも「琉球の歴史」にも目覚めてしまい、琉球大学や おきなわ県民カレッジなどの聴講生になって興味のある講座を受講しているが、そうこうしているうちに、琉球の歴史の定説のように思われていることにも疑念が生じてきた。今回は、移住とは全く関係のない話だが、そのひとつを取り上げてみた。

浦添市は、那覇市の北に隣接した本島中部にある都市で、那覇市のベッドタウンでもある。読み方は「うらそえ」である。しかし、以前は「うらおそい」だったと市のHPにある。「うらおそい」とは、浦を襲う、つまり浦々を支配するという意味で、後に縮まって「うらそい」になり、浦添という二文字で表されるようになったのだそうだ。確かに浦添に「うらおそい」と振り仮名がある資料をよく見る。浦添は、昔は琉球の首都で全島を支配していたが、その後、首都は首里に移った。つまり遷都したということになっている。この遷都という表現が問題なのである。琉球の歴史を調べていくと、私は、この説に疑問を持つようになった。

浦添の地名は、沖縄学の父として知られる学者の伊波普猷(注1)先生の『浦添考』に、「浦添という漢字はアテ字であって、もとはウラオソイとカナで書いたということがわかった。浦添ようどれの碑文に、りうきう国てだがすゑあんじおそいすへまさる王にせがなしは、うらおそいよりしよりにてりあがりめしよわちやことうらおそいのようどれは……(サイトの管理人の注釈…琉球国の尚寧王は浦添から首里に光り輝いてお上がりなさったので うらおそいのようどれは……)、という文句がある。1621〜1627年に編纂した おもろ双紙にも『うらおそい』と書いてある。『うらおそい』はうら(浦)おそふ(襲)といふ言葉の名詞形で、浦々を支配するといふ意をもっている」と書かれている。うらおそい、浦襲、浦添は、「国を治める」ことを意味しているのだと伊波普猷先生は言う。

いろいろ調べてみると、浦添は、古琉球時代に琉球を支配したとされる有力按司(注2)を輩出した所であることが分かる。琉球・沖縄史の年表を見ると、舜天王統(1187?〜1259年?)から始まって、英祖王統(1259?〜1349年)、察度王統(1349〜1405年)の三つの王統が、凡そ220年間にわたって続いているが、これらの王統は、いずれも浦添を拠点として築かれている。

しかし、舜天王統(注3)の存在を疑う研究者は多い。私も舜天王統が為朝の子というのは伝説の世界で、意図的に創造された話だと思っている。続く英祖王統(注4)も伝承で語られることが多い。出生についても母が上帝の夢を見て身籠ったとか、母が日輪を夢見て妊娠したという出生譚は通常ではない。ただし、伊祖城に居を構えたり、浦添ようどれに王の墓が残されているので実在した可能性は高い(と言っても浦添ようどれが英祖王の墓であるという確証はない)。資料が少ないので、実在を疑問視する学者もいるが、実在したとしても、浦添を中心とした狭い地域を支配した首長で、琉球全島を通津浦々まで支配していたという根拠は何もなく、支配の及ばない北部や南部には、多くの按司たちが群雄割拠していたのではないかと思われるのである。

続く察度(注5)もまた、前半生は、母は天女だったという伝承でしか語られていないので、謎に包まれた人物であり、この部分だけを見ても、察度の出生譚は明らかに虚構である。出生譚は虚構でも存在そのものを否定するものではなく、正史の記録としては中国の史書『明実録』(中国、明朝13代皇帝の実録)に、洪武5年 (明の元号:1372年)琉球国 中山王 察度が明に朝貢したことが記されているそうだ。ここからは紛れもなく琉球史上に登場し、その実在が明らかにされた人物と云うことになる。つまり、それ以前は、大和の歴史の古事記、日本書紀と同じで創造と史実が混沌とした世界なのである。

では、本筋の「うらおそい」に話の戻るが、浦添は、本当に琉球を支配していた「うらおそい」だったのだろうか?。琉球王朝として国を統一したのは尚巴志(しょうはし)である。彼は、南部にある佐敷(現在の南城市)の按司(注2)だったが、南山、中山、北山と戦い、これらを制圧し統一王朝を築いた。そして首里城を王府としたのである。 ということは、尚巴志が出現する前に、浦添が琉球をスミズミまで支配していた「うらおそい」であるはずがなく、浦添王統は、あくまで中山を支配していたにすぎないと思われる。従って、本当の「うらおそい」は、浦添ではなく、尚巴志が琉球を統一して王府とした首里だったのだと思われるのである。

(おことわり)以上は、このサイトの管理人の意見であり、琉球史の定説ではありません。

(注1)伊波普猷…那覇市出身の言語学者、民俗学者。沖縄学の父として知られる。詳しくは ⇒ コチラから
(注2) 按司(あじ)…琉球の 古代共同体の首長の呼称。また、王族のうち、王子の次に位置し、王子や按司の長男(嗣子)のこともいう。このほか王妃、未婚王女、王子妃の称号にも用いられた。
(注3)舜天王統…浦添按司・舜天が建てた王統。琉球二番目の王統とされる。最初の王統は天孫だが、天帝が阿摩美久(あまみく)という神を下界に遣わし、琉球の島々を創らせたという話から始まるので、まるで神話の世界。また、舜天は源為朝の子供だという絵空事なので、実在は疑わしい。詳しくは ⇒ コチラから
(注4)英祖王統…実在した可能性が高いが琉球全土を支配していたとは思われない。中山を5代90年治めていた王統である。詳しくは ⇒ コチラから
(注5)察度王統…14世紀の琉球の王統。初代の察度とその息子の武寧の二代、56年間続いたが、尚巴志に倒された。察度の誕生は ⇒ コチラから。察度が住んだ黄金宮は ⇒ コチラから
《参考資料》「沖縄県の歴史」、「琉球王国の形成」、「ヒストりゅ〜 琉球・沖縄史」、「沖縄拝所巡礼」、「琉球史を問い直す」、「高等学校 沖縄・琉球史」、「琉球王国ぶらぶら散歩」、「目からウロコの琉球・沖縄史」、「本音で語る沖縄史」など。


ナビゲーションはトップページにあります。⇒ TOPページへ

背景の「読谷山花織」は、「ゆたんざはなうぃ」または、「よみたんざんはなおり」と読みます。琉球王朝のための御用布として織られていました。絶滅寸前だったものを、昭和39年に読谷村で「幻の花織」として復活しました。