リザンホテルと名付けたのはインド人?


リザンホテル


本島西海岸の谷茶(たんちゃ)に「リザンシーパークホテル谷茶ベイ」という名の大きなホテルがある。初めて聞いたとき、「リザン」なんてホテルチェーンを聞いたこともないし、変わった名前だなと思ったのだが、その「リザン」は、琉球王府の役人だった謝名親方利山(じゃなうぇーかたりざん・1545年〜1611年)にちなんで名付けられたという。まさか、ホテルの名前に琉球王朝時代の役人の名前を付けるなんて想像もしていなかった。それも名付けたのはインド人というから、またまた驚きだった。なお、上の写真は、同ホテルのHPからお借りした。

このホテルのHPによれば、その訳は、インドの神様である、シュリ・グル・ナーナク・デヴの帰依者、聖グルムク・シンが、1982 年に沖縄を訪れ「このホテルの新築にあたっては、愛と犠牲の人生を生きた無名の偉人の名を冠すべし」と伝えたことにより、500年も前の琉球王国時代の三司官(注)であった謝名親方利山(りざん)が選ばれたのだそうだ。どうしてインド人が名付けたのかホテルのHPにも記載がないので調べてみたら、ホテルを所有する沖縄オーラコーポレーションがインド系の資本で設立された会社だったからである。

さて、謝名親方利山がどういう人だったかというと、まず、「親方(うぇーかた)」とは琉球王府での役職名で、王子、按司に次ぐ位のことである。つまり、当時の琉球王府のエラ〜イお役人だった。謝名親方利山は、久米村(現在の那覇市久米)の出身で、16歳のとき選ばれて明(中国)に留学をし、その後は明への使者として活躍した。57歳のとき三司官となり、第7代琉球王朝、尚寧王の補佐役となった。独立を保っていた琉球王府だったが、1609年4月5日、薩摩藩が琉球へ侵攻した。琉球側は鉄砲を備えた薩摩藩には全く抵抗できず、一方的に惨敗した。民の身を案じた尚寧王の降伏により利山は人質として薩摩に連行され、薩摩藩から島津氏に忠誠を誓う起請文にサインするように強制された。その際に「琉球の自由なくして生きるかい無し」として、ただ一人拒否し、薩摩で処刑されてしまった。当時の琉球の役人に、こんな気骨のある人もいたのだ。命を懸けて祖国を守ろうとした役人もいれば、何を聞かれても、身に都合の悪いことは「記憶にない」「記録にない」を繰り返す現代のお役人とは比べものにならない。 (--、)

(注)三司官(さんしかん)…琉球王国の宰相職のことで、首里王府の実質的な行政の最高責任者。

 

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