対馬丸慰霊碑が鹿児島県宇検村に


このぺージは、当初、対馬丸慰霊碑を宇検村議会が否決というタイトルでしたが、慰霊碑建立が可決されましたので、タイトルを変更しました。

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《速報》

対馬丸慰霊碑

一旦は村議会で否決された対馬丸の慰霊碑が完成した。 場所は、遺体が漂着した鹿児島県奄美大島の宇検村(うけんそん)・船越(ふのし)海岸で、平成29年3月19日、除幕式が行われた。

琉球新報によれば、除幕式には、生存者や遺族ら約120人が出席し、元田宇検村長は「慰霊碑建立は生存者や遺族、関係者の長年の願いだった。二度と戦争を繰り返してはならない」とあいさつ。式に出席した生存者の上原清さん(82 )=沖縄県うるま市=は「(犠牲になった子供たちからの)命のバトンを未来の平和を担う子供たちにつなげたい」と話し、慰霊のシンボル完成を喜んだという。(写真も琉球新報Webより)


慰霊碑が建立された宇検村へは、奄美空港から車で2時間かかる。さらに碑のある船越海岸は集落から2キロ離れており、車がすれ違うのも難しい海沿いの道を通るという。容易に行ける場所ではなさそうだ。対馬丸事件から 70数余年が経過し、生存された方が高齢化する中、この悲劇を風化させないようにと、慰霊碑を建てていただいた宇検村の皆さんのお気持ちに応え、とどまることなく後世に伝えてゆく努力が必要だと思う。



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《追記》 宇検村の村議会は、9月定例会に計上した「対馬丸慰霊碑建立補助金」の610万円を承認した。この建立費用は15年度3月定例会、16年度6月定例会と2度にわたり否決されたが、8月の議員改選を経て、村は建立費補助金の見直しを図り9月定例会に再度、計上していた。宇検集落の対馬丸慰霊碑建立実行委員会委員会は「年度内にも完成させたい。亡くなられた方の御霊(みたま)を祀り、平和の大切さを伝える場にしたい」と語った(琉球新報より)。


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(以下が最初にUPしたページ)
日本史の教科書に出てこない対馬丸(つしままる)事件をご存じだろうか。おそらく本土の人の中には、知らない人もいるかもしれない。私の高校3年生のときの日本史の授業は大正デモクラシーで終わってしまい、対馬丸事件を知ったのは、大学に入ってからのことだ。この事件について、日本政府は歴史の事実から隠そうとしているのか、教科書の「多くの疎開船がアメリカによって沈められました」との記述でさえ、検定で「沖縄県民を乗せた多くの船が遭難しました」と書き換えられてしまったのである。

対馬丸事件とは、昭和19年(1954)8月22日、日本政府の命令により沖縄から九州の長崎に学童疎開輸送中の船が、 アメリカ海軍の潜水艦の攻撃を受けて撃沈し、犠牲者 乗員・乗客 合わせて1,476名を出した。同船に乗っていたのは、那覇国民学校の児童とその介添え者 合わせて1,661名といわれている。残った児童は、わずか59名だったという。当時は 日本国民に与える衝撃を考慮し、箝口令がひかれ、この事実は国民には知らされなかった。その船の名が対馬丸である。

この事件で鹿児島県宇検村には、21人の生存者と105人の遺体が漂着した。このため村では事件から72年となる今月22日を目指して犠牲者を悼むため、犠牲者の多くが漂着した同村の船越海岸に慰霊碑を建立する予定だった。ところが、村議会は医療関連など、住民生活に密接した施策を充実すべきだと反対意見が上がり、慰霊碑建立は賛成3人、反対4人で否決してしまった。沖縄の生存者や遺族は「議決に口を挟む立場にはないが、関係者が健在なうちに奄美の碑に手を合わせたいというのが 私たちの願い」と動向を見守っている。

なお、村担当者によると、慰霊碑建立にかかる事業費は当初、1千万円だったが、石材、工法などを見直し650万円に補正した。宇検村長の元田信有さんは「8月までに碑を完成させ、9月に関係者を招いた落成式典を描いていた。否決は大変残念だが、慰霊碑は沖縄の方々の願いであると同時に、奄美の子どもたちの平和教育のためにも必要」と再提案を模索している(NAVER、沖縄タイムス、琉球新報などより)。

対馬丸 対馬丸記念館
対馬丸(日本郵船歴史博物館所蔵) 那覇市若狭にある対馬丸記念館

 

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