沖縄に石川啄木の歌碑がある?


啄木の歌碑

歌碑には、「新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど― 啄木」とある。


今日、4月13日は、夭折の詩人、石川啄木の命日、啄木忌(たくぼくき)である。

沖縄県内各地には多くの歌碑が建っているが、ほとんどが地元の民謡や琉歌、おもろの碑である。そんななか、石川啄木の歌碑が那覇市内にあることを知った。本土出身者の歌碑も少しはある。ただし、沖縄の詩人を育てた佐藤惣之助の歌碑や寺島 尚彦作詞・作曲の「さとうきび畑」の歌碑、沖縄のご当地ソング「風花の港」を歌った美空ひばりの歌碑 という、沖縄に何らかのゆかりのあるものに限定されている。

しかし、石川啄木は岩手県出身で沖縄に来たこともなく(と思うが?)、沖縄を題材とした作品も聞いたことがない。そんな啄木の歌碑があるのは、実は、沖縄出身の山城正忠さんの尽力があったという。「新しい沖縄歴史教科書を造る会」のHPによれば、山城さんの本業は歯科医師だが歌人でもあり、若い頃に上京して医学を学ぶ傍ら、与謝野鉄幹・晶子に師事した。そのころ、石川啄木と親交があったという。 山城さんは、啄木の死後、昭和12(1937)年6月、「月刊琉球」の「啄木と私」で「私がはじめて琢木に会ったのは、その頃千駄谷に有った与謝野先生の家であった」と石川啄木との思い出を書いている。ともに地方出身者ということで意気投合し、啄木の下宿をたびたび訪問する間柄だった。

山城さんは沖縄に帰った後、沖縄歌壇の育成者として活躍し、那覇市内に啄木の歌碑を建てる計画を進めていたが、昭和24(1949)年に他界した。その後、山城さんの遺志を引き継ぎ、門人はじめ、沖縄啄木同好会の皆さんが昭和52(1977)年4月に歌碑を完成させたという話である。

歌碑には、「新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど―」とある。 この歌は、「悲しき玩具」に収められており、27歳でこの世を去った啄木が救いようのない生活苦を詠んだものだ。 この歌を選んだのは、碑の設立を計画した前述の山城正忠さんだそうだ(このページは、新しい沖縄歴史教科書を造る会のHP、Wikipedia、レキオ・島ネタCHOSA班などを参考に作成)。



啄木の歌碑がある東本願寺

歌碑のある那覇市西の真教寺

なお、歌碑のあるのは那覇市西の真教寺(上の写真)で、この寺は浄土真宗大谷派(東本願寺)の寺院である。国道58号線泉崎の信号から西消防署通りをパシフィックホテルに向かって5〜600メートルほど西へ行ったところにある。地図は ⇒ コチラから



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背景の「首里織」は、首里王府の城下町として栄えた首里において王府の貴族、士族用に作られていたもので、悠々として麗美な織物が織り継がれ、現在に至っています。この作品は、米須幸代さんの「グーシー花織」です。